陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-05-23

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繰り返し、確認している事

最近、いろんな時々に心の中に浮かび上がってくる事

いろんな意見の違いがあるが
その原因をたどっていくと
結局は、世界観の違いだということ

世界観といっても難しいが
それは、「悟性」といってもいい

悟っているか、いないのか
真理を捕まえているか、いないのか

たとえ同じ言葉で表現されたとしても
その中身は、様々だ

イソップ物語だったか、目の見えない人たちが
動物園で象に触り、象とはどのようなものなのか
それぞれに意見を言うような話があるが
それと同じようなものだ

フラクタルの森では、「悟性」は、
5w2hの「いつ(時間)・どこで(空間)・だれが(人間・主体)・なにを(課題・客体)」にあたる

意見の違いの一番大きな背景は、時間・空間・人間をどう見ているのか
原因はこの2つの見方にわけられる

①「死ねば終わりで、神仏など居ないで、人間は偶然に生まれてきた」
という唯物論、無神論の考え方と

②「あの世は有り、神仏はおられ、人間は願いを込めて産み出された」
という宗教に根ざした考え方

この違いは、とても大きな差となって現象化する

左翼思想、リベラル傾向のある人は、程度の差は有れ①の世界観の影響を受けている
また、右翼思想の人たちの中にもこの世界観が影響を与えており
この悟性の中では、「結果」が大きなウエイトを占めることになり
全体主義的な国家を生み出す傾向がある

要するに、うつ病とそう病が表裏一体をなす傾向があるようなものと一緒だ
結果ばかりを見すぎるために蛇行しているのだ
蛇行して世界中に不幸を生み出していく

その原因は、正しく世界を見ることが出来ていないことに有る



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