陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-03-21

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「信仰心は有りますか?」

と質問されたらどう答えますか?
また、「宗教は?」と聞かれたなら

それほどの違いがないはずなのに
「信仰心は有る
宗教は、(伝統的な葬式宗教に属しているが)無宗教です」
と、答える人が、おそらく多いのでしょう

その信仰心は有るという答えの中身を聞いてみると
神社仏閣や仏壇などで手を合わせたりすることをもって信仰心が有るといっているのかもしれない
しかし、その手を合わせ祈っていてもその中身も様々でしょう
守ってくださいといった気持の場合もあるでしょう
経済的繁栄とか何らかのご利益を願っているのかもしれません

そのように祈っている人たちは
目に見えない霊的な世界とか神仏の世界があるのかもしれないとは思っているのでしょうが、具体的に深く考えたことが無い人が大半ではないだろうか
現代の宗教事情は、案外こんなものかもしれません

私は、「信仰心は有る」という人に対して質問したい
「何を信仰しているのですか」
「神(仏)なる存在を信じているのですか」
「その神(宗教)とはなんですか」
「その教えの内容は、具体的にどのようなモノですか」

信仰心の有無は、
結局は、この一点を認められるかどうかでしょう

人は偶然に生まれ自然に進化してきただけなら
これが真理で有るのなら
神なる存在を意識しないでもいいでしょう
自然を神と翻訳して曖昧模糊の中で整理している状況もあるでしょう

ただ、

神の意志により
神の願いが込められ
この宇宙も
全生命、全物質も
創り出されたとするなら

私たちも神(仏)の子です
神仏の子供であるなら
その魂の中にも神仏と同じものが組み込まれているはずです

その体を成長させ統御するプログラムも有り
魂の中、その心の中には、確かにいろんなものが組み込まれています
動植物にも我々人間にもそれぞれの本能が組み込まれています
明らかにプログラムが起動しているがごとくに作動します

この気の遠くなるような複雑な宇宙
生命体だけでなく宇宙そのものの成り立ちや、その機能を見るにつけ
これだけのものが、なぜ創られ維持できるように設定されているのか

動物と人間を分けるのが、信仰心、宗教心の有無だともいわれていますが
この神仏を意識できるのは、おそらく動物たちにはできないでしょう

昔、ご縁があった科学者で霊能力者でもあった知人がよく色んな有名人や経済人を指して、「動物霊」だと言っていたことを思い出します。
どれだけの知性を持っていても
この信仰心が無ければ、まさに、心は動物的なものとなってしまいます

自と他の2つしか認識できません
どうしても正しさの判断も、自分が主になります
究極的な客観視が、本物の信仰心が無ければできないのです

信仰心と言いながら、お金を信じている場合もあるでしょう
自分を主として、神として認識している場合もあるでしょう
ご利益のみを信じている場合もあるでしょう
自分に都合のいい結果が現れなかったら
神を認められない信じられないという人が多いのではないだろか

やはり、幾分動物に近くなって人間ではいられなくなっているのかもしれません

信仰の対象である神は、全人類の親でもあるでしょう
創られた以上、そこには思いが有ります、願いがあります
その願いがどのようなものであるのかは
私たちの動物的な本能部分を沈めて考えたなら
神仏の子としての魂の本質が見えてくるはずです

信仰心が無く生きるなら、間違いなく動物的判断だけで生きることになるでしょう
万物の霊長としての資格は消えてしまいます。



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