陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-02-15

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フラクタルの森での考え方、見方

今まで色んな事を経験し考えてきたこと、発見したこと
そして形にしてきたことを整理してみた。
一言で言うとどんな言い方になるのか
「額の中央に有ると言われているチャクらで考えませんか」とか
「両目で観ませんか」と言うことになります。
画像の説明


物事を立体的に見るということは、正確に見る事でも有る
そして、立体的に見るということは、
3D映画でも分かるように2つの映像が必要です
2つの目がいると言うことです

景色や物を観る時にも当然のことですが
抽象的なことを考え観るにしても同じ事が言えます。

抽象的なことと漠然と言ってしまっても思考停止してしまいがちですが
整理して考えてみると次のような項目が有ります

時間・・・・・・
        原因と結果、結果と原因
空間・・・・・・
        環境と自己、他者と自己
人間・・・・・・
        感情と理性、好き嫌いとプラスかマイナスか

これらの2点を白紙の上に置いて観ることです

たとえば、世間では様々なことで意見が分かれ対立することが有ります
こんな時どうしても主体を自分だけに置いて考えがちです
対立する意見の他者に主体を置いて考えるなら
当然その意見も無視することは出来ません
そして、他者と言ってもまた、様々な意見が有ります

現実的な話をあげれば、宗教に対する考え方です。
画像の説明
私は、幸福の科学に入っていますが
周囲には、創価学会や統一教会、エホバの証人など色んな方がおられます。
それらの考え方は、私から観れば明らかに間違っていると見えるのですが
「無宗教」(唯物論、無神論)の方から言わせれば同じに見えるでしょう。
対象をもっと分かりやすくするために「オウム真理教」を持ってくれば良いのかもしれません
彼らの犯罪が表面化するまでは、一部の有識者と言われるような人たちはオウムをまじめに修行している団体と観て、幸福の科学を現代に花開いたあだ花のように観ていた人たちも多く居ました。

私は、他者を否定する前に必ず、その対象を白紙の上に並べて置いて公平に観ようと努力します
この作業を常にするように努力している為に自分の見方に自信を持っています。

しかし、私が否定した考えの人たちも同じように、自分の持っている信仰について確信しています
無宗教の人たちもしかりです。
私から観れば、思考停止をして、今自分にとって都合の良いところに留まりたいという心理が働いているようにみえます
とても難しい課題では有ります

この違いを整理し、真実、真理を見いだしていく作業には
やはり、常に二つの視点が必要であります
さらには、白紙ではなく
両目の背景に神仏の視点を置く必要が有ると思うのです

しかし、神仏を自分が信じている存在ではなく
抽象化して、地球の全生命を我が子として認識されている存在を想定して
観ることです
どうしても、神様を観る時も自分を見るように見てしまいます
自分を離れて観る努力が必要です。

宇宙を、神仏の体を一人の人間に当てはめて考えると
神様は、額に有ると言われているチャクラで観られているに等しいでしょう
そして、相争っている2つの存在の成長を見守っておられるような形がこの宇宙の本質ではないでしょうか



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