陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2016-10-05

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主なるモノ

今、自分自身の視点がどこに有るのか
この課題は、大きい。

今(時間)、ここにいる(空間)、自分(人間・主体)を基本としているのだが
余りにもその視点が目先のモノ、身の回りの見えているモノ
そして、自分という個人の都合ばかりで見ているようだと
どうしても目先の損得で判断し動いてしまい、間違う場合がある

「瞑想」とも関連するのだが
いま、ここにいる自分の中から離れて他者の立場、他者の視点で見られるかどうかだろう
そして、出来るなら神仏の如き視点がもてるならなお良き判断が出来るのだろう

しかし、その神仏を見る時、その宗教を見る時も
どうしても、自分の中での判断であるという制約は有るのも事実

画像の説明

「真理」に関しても、人により立場によりその見方は分かれる
仏教にこだわる人、キリスト教にこだわる人、イスラム教にこだわる人
そして唯物論(無宗教)にこだわる人
それぞれの立場から離れようとせずに、他の教えからも学ぼうとしない人たちが多いのも現実だ。

幸福の科学の教えを見ていると
自と他と全体の視点で考えることをいつも推薦されているように感じる
自分の意見(正)と他者の意見(反)を白紙の上に載せて
合なる視点、神仏の物差しをあててみようと思うこと
宗教の違いを越え、教え主の違いを越え、
全てを我が子と見ているような存在、神仏(合)の視点の
この3点での視点を持って考えるべきだと思う。

自分の正当性は、努力しなくても良いだろうが
他者の視点の正当性を考えてみることだ
その上で、神仏、天の視点を加えて観る努力

面倒では有るが、とても大切なことだと思う

観ていると、多くの人たちは
自分という枠から出ることをしたくないようだ



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